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静岡茶と江戸の役人 勝海舟の意外なかかわり! 新政府に人材の売り込み!? 将軍の親衛隊がお茶づくり!?

静岡茶
実は静岡が日本一のお茶所になった背景には勝海舟が大きくかかわっているのです。

 

江戸の役人勝海舟静岡茶の意外なかかわり、そこには幕府滅亡の後始末をめぐる勝の奮闘の秘話が隠されています。

江戸無血開城

江戸城開城から間もなくして徳川家は静岡への移住を命じられます。
徳川家は700万石、3万人の家臣。
それが70万石に。


実際に静岡に移住してきたのは3万人の家臣のうち1万3千人。家臣の半分近くです。
徳川家の重役である勝は限界を超える家臣のリストラに当たらなければならなりませんでした。


徳川家の財政をやりくりして役職と給料を与えられる家臣は5千人まで。
ここからあぶれた多くの家臣に対し勝は自分で職を探すよう通告せざる得ませんでした。


幕府の事後処理を終え、しばらくして勝も静岡へ移住。
そこは勝にとって家臣たちの恨みの真っただ中でした。勝の家には天誅の札がかけられることもあったとか。


この逆境で勝は問題解決に意欲を燃やすのである。

 

いま家臣たちが暴動でも起こせば徳川家自体が取り潰されかねない。
勝がまず取り組んだのは明治新政府への人材の売り込み。


大久保利通に元幕府の海軍士官たちを明治政府軍で雇うよう依頼しています。
260年以上日本を治めてきた幕府は巨大で伝統ある官僚組織でした。その人材を生かすよう勝は新政府の求めたのです。


勝の働きかけは全国の大名家にも及びます。
再就職先は60か所以上。250人余りの徳川家臣たちが新たな職を得て旅立っていきました。


また勝が行った別の救済策も。


無血開城直後の慶応4年(1868)夏。
勝のもとを訪れた武士たちが新政府の占領する江戸城へ押し入り切腹したいと訴えました。徳川慶喜の親衛隊だった彼らは慶喜の静岡移住後200人余りの隊員の多くが任務を解かれ自暴自棄になっていました。


恨まれている勝が諭しても聞き入れるはずもなし。そこで勝は一計を案じます。彼らの徳川家への熱い忠義心に目をつけたのです。


「いっそ久能をまかせてやるから あちらへ こもっていて時勢をみたらどうだ」
「おれの言うことを聞いてあちらへ行くというなら 食いぶちだけはやろう」
(海舟座談より)


久能とは静岡駿府にある徳川家の霊廟、久能山東照宮です。
その警備という名誉ある役職を勝は彼らに与え、もし新政府と戦でも起きたら守って戦うよう言い聞かせます。


武士たちはこれを受け入れ久能山へと向かいました。
ところが警備を始めたものの待てど暮らせど新政府と戦いになる気配はありません。平穏な警備だけで給料は支払われる。そんな生活が半年以上続きました。


明くる明治2年(1869)春。
武士たちは再び勝のもとを訪れます。


徳川家の財政が苦しい中、今のまま給料をもらうのは忍びない。武士たちは静岡で手つかずの土地を開拓し自立したいと申し出たのです。
勝は待ってましたとばかりに開墾方という役職を与えの農業へと転身させました。


武士たちが移り住んだのは島田市牧ノ原台地。彼らは勝の勧めで当時外国との貿易で輸出が伸びていたお茶を作ることにしました。
牧ノ原台地に入植したのは200人余り。慶喜の親衛隊の時と同じように20近くの組に分かれそれぞれのリーダーのもと荒れ地の開拓にあたりました。

厳しい開拓の日々を送る彼らに勝は援助を差し伸べています。開拓の資金として千円、今の価値で一千万円近い金額を送ったこともあるそうです。

勝の助けを支えに武士たちは開拓を始めて4年後の明治6年(1873)ついに最初のお茶の収穫にこぎつけます。


勝はこのように生きがいを失った武士たちの不満を巧みにそらすなど様々な手練手管を使いながら大勢の徳川家臣たちを救済していったのです。

 

 

歴史秘話ヒストリア 俺(おれ)がやらなきゃ誰がやる~勝海舟 第2の人生の使い方~」より

 

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。