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榎本武揚はなぜ海外を目指したのか? ~幼少期から開陽丸艦長就任まで~

 

べらんめぇ口調のガキ大将

1836年、榎本釜次郎のちの榎本武揚は江戸で旗本の子どもとして生まれた。幼い釜次郎は寺子屋で子どもたちをいじめるガキ大将。べらんめぇ口調の江戸っ子だったという。そんな釜次郎に大きな影響を与えたのは父の父の円兵衛だった。

円兵衛は幕府天文方に仕えて暦を研究。のちに全国を測量して地図を作って伊能忠敬の弟子として活躍した。

そんな榎本家には当時は珍しい地球儀があった。釜次郎は広大な世界に思いを巡らせたという。

16歳になると幕府の学校「昌平坂学問所」に入学。釜次郎が特に力を入れて学んだのが外国語だ。最先端の知識を得るためオランダ語を習得。更にさらにアメリカから帰国したジョン万次郎の私塾にも通い英語を学んだ。

18歳の時、榎本いや日本の運命を変える出来事が起こる。ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れたのだ。黒船来航である。

 

驚きの連続であった蝦夷地の調査

外国の武力に脅威を感じた幕府は海岸防備の強化を図る。幕府はその一環として現在の北海道、蝦夷地の調査を決定。釜次郎は父の口添えもあり調査に参加したという。

調査ルートは函館から日本海側を通って宗谷岬へ北上。更に樺太に渡り帰りは東回りで蝦夷を一周する大規模なものだった。

19歳の釜次郎にとって蝦夷の旅は驚きの連続だった。函館湾で見たのは何隻もの巨大な軍艦。この年日米和親条約が結ばれ、開港したばかりの函館にはアメリカ、イギリス、フランスの軍艦が集まっていたのだ。そして、蝦夷の果てしない大空と広い大地。その豊かさに圧倒された。

 

海軍伝習所そしてオランダ留学

3年後22歳の榎本が次に向かったのは長崎の海軍伝習所だった。近代海軍の設立を目指す幕府がオランダの協力を得て作った学校だ。1期上には後に軍幹奉行となる勝海舟もいた。釜次郎は数学や化学をはじめ航海術、蒸気機関の動かし方を学んだ。

伝習所に入って4年後、思いがけないチャンスが巡ってくる。幕府は海軍力強化のため初めて留学生を海外に派遣することにしたのだ。行先はオランダ。榎本はこれに志願し15名の留学生の1人に選ばれた。1862年榎本たちを乗せた船は江戸を出発。オランダに到着したのは10か月後のことだった。

 

国際法と万国海律全書

榎本はこの留学でその後の人生に大きな影響を与えるものと出会う。国際法だ。榎本がプロイセンオーストリアの戦争を観戦した時のこと、戦後の和平協定が国際法に基づいて結ばれたことを知った。西洋列強といえども国同士で守らなければならないルールがある。これこそ西洋の脅威に晒されている日本に必要だと考えたのだ。

榎本が実際に読み使っていた書物「万国海律全書」。ヨーロッパの国同士が長年の経験をもとに取り決めた海事に関する国際ルールの解説書だ。外国船同士の接触が多い港で事故など国際問題になるような事態が起きたとき、どのような権利や義務が発生するのかなどが記されている。

榎本はオランダ人の教師に頼み込みフランス語で書かれた本をすべてオランダ語に翻訳してもらい何度も熱心に読み込んだ。榎本の勉強ぶりに感心した教師はこんな言葉を送っている。
「あなたはこの本を読むために400時間かけた。私は最初簡単に訳していたがあなたの理解が深いことを知り正確に訳すようになった。」

 

開陽丸の完成 

榎本たち留学生にはもう一つ重要な任務があった。幕府がオランダに発注した軍艦、開陽丸を引き取って帰国することだ。

開陽丸は全長72m、排水量2590t。当時は世界的に見ても巨大な蒸気軍艦だった。更に榎本はこの船にクルップ砲と呼ばれる強力な大砲を装備させた。こうして軍艦開陽丸は完成。開陽丸の完成披露では榎本たちはシャンパンで祝杯を挙げ飲み明かしたという。無類の酒好きだった榎本は留学中に飲んだビールを気に入り開陽丸に積んで持ち帰ったと言われている。

1867年、航海術と国際法を学んだ榎本は開陽丸と共におよそ5年ぶりに帰国。そして幕府より開陽丸の艦長 軍艦頭に任命される。榎本武揚32歳の時であった。

つづく funa-karui.hatenablog.com

 

『ザ・プロファイラー 「サムライ北の大地へ 榎本武揚」』より

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