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榎本武揚はなぜ蝦夷地を目指したのか? ~帰国・江戸幕府の滅亡・そして北へ~

開陽丸とともに帰国した榎本。しかし1年後に榎本が向かったのは蝦夷地、現在の北海道だった。なぜ蝦夷地を目指したのか。

大政奉還王政復古の大号令

オランダから帰国して3か月後の1867年6月榎本は結婚。相手は17歳の多津。榎本と共にオランダへ留学した仲間の妹だった。仕事も私生活でも順調だった榎本。だがそれは長くは続かなかった。

結婚からわずか半年後の11月。将軍徳川慶喜が朝廷に政権を返上した。大政奉還である。翌月朝廷は王政復古の大号令を発する。幕府を廃止し天皇を中心とした新しい体勢を作るという。

更に徳川慶喜から内大臣の地位を奪い徳川領400万石の朝廷への返上も決定した。ここに260年続いた徳川幕府が終わりを告げ明治新政府が設立された。

 

戊辰戦争 その時榎本は

だが、徳川家の処分を巡り旧幕府軍と薩摩長州を中心とする新政府軍が対立。京の郊外で一触即発の事態になった。

この時榎本は京に上る将軍を警護するため軍艦に乗って江戸から兵庫の港に来ていた。榎本が家族に宛てた手紙にはもしも戦になっても勝つ自信があったことが記されている。
「我が方の兵力はおよそ3倍。勝利は十分である。」

1868年1月3日。榎本の予感は当たり戦の火ぶたが切られた。鳥羽・伏見で新政府軍と旧幕府軍が激突。これがおよそ1年半にわたる戊辰戦争の始まりだった。

兵力では圧倒的にに有利だった旧幕府軍だが敗走してしまう。新政府軍が錦の御旗を掲げたことで旧幕府軍は朝敵として扱われることに大きく動揺。その場を去る兵士が続出したのだ。

翌日の未明、榎本のいる兵庫港でも戦いが起こった。兵庫沖から新政府軍の船が出航しようとしたところを榎本の率いる開陽丸クルップ砲で砲撃。1隻を撃沈して他の船も追い払った。海上では榎本たち旧幕府軍の圧勝だった。だが、陸上の敗戦が響き旧幕府軍は劣勢になっていた。

2日後、榎本たちは戦況を立て直すため大坂城に集合。徳川慶喜が出席するなか今後の戦略を話し合った。兵力に勝る旧幕府軍。結論は徹底抗戦。

だが、その夜慶喜は密かに側近と共に開陽丸に乗り込み江戸にへ逃亡。置いてきぼりを食った榎本はこうつぶやいたという。
「将軍たち重心の無策にますます驚き失望した。徳川家の命運これまでと血の涙がとまらなかった。」『戊辰之夢』

榎本たちは大坂城に残された兵と共に別の軍艦に乗り込み江戸に帰った。その中には幕府の命を受けて京都の治安を守っていた新選組の面々もいた。

 

恭順派と交戦派 そして無血開城

その後改めて会議が開かれたが意見は真っ二つに割れた。明治政府に従う恭順派とあくまで戦い続ける抗戦派。恭順派には慶喜や軍の全権を担う勝海舟、抗戦派には榎本や陸軍奉行並の小栗忠順がいた。

榎本は恭順を支持する慶喜にこう言い放ったという。
慶喜さまは腰が抜けたのか。いまさら恭順とはどういうことか。」
しかし、榎本の意見が取り入れられることはなかった。それからおよそひと月。徳川慶喜は新政府軍に恭順の意を示して上野寛永寺に蟄居。その後の一切を勝海舟に託した。

その間新政府軍は東に進軍。江戸総攻撃は目前に迫っていた。1868年3月13日勝は新政府軍の責任者西郷隆盛に直談判。武装解除の条件を飲み江戸城を引き渡すことで総攻撃を回避した。いわゆる無血開城である。

 

開陽丸の進路は北 仙台そして蝦夷

翌月榎本は勝の自宅を訪問しある相談を行っている。それは蝦夷地の開拓。徳川宗家は明治政府の処分により駿河への移封が決まり石高も6分の1、70万石にまで減らされてしまったからだ。
榎本「生活に困窮する幕臣を救うため蝦夷地を開拓できないだろうか。」
勝「するべきではない。」
『勝の回想録』

旧幕府の了承が得られないのなら実力行使しかない。榎本の胸中は決まった。徳川宗家が駿河へ移されたのを見届けた榎本は8月20日未明、開陽丸へ向かった。榎本は旧幕臣ら1600名を連れて無断で開陽丸を出向させた。家族を残しての旅立ちだった。

出発直前榎本は新政府軍に対して通告分を送っている。
「王政復古と称しながら薩摩長州などの強い藩が好き勝手に徳川の領地を没収し幕臣や旗本らを窮地に陥れたのは真の王政ではない。家臣は路頭に迷っている。その救済を願い出たが許されなかったので一戦を辞さぬ覚悟で江戸を退去する。」

更に勝に対しても謝罪の手紙を送っている。
「あなたを煩わせてしまい申し訳ない。」

開陽丸の進路は北。目指すは旧幕府軍の拠点仙台だ。ところが榎本たちが仙台に到着して間もなく仙台藩も新政府に降伏してしまった。そんな中心強い味方と再会する。新選組土方歳三や旧幕府の陸軍だ。彼らも新政府軍と交戦の末仙台へと北上していたのだった。そして、榎本は土方たちを加えた仲間にこう言った。
蝦夷地に赴きそこで朝廷に嘆願し脱走した者たちで蝦夷を開拓したい。」

1868年10月12日、榎本は2800人ほどの仲間と共に開陽丸をはじめ8隻の船乗り込み蝦夷地へ出発した。この時32歳。

つづくfuna-karui.hatenablog.com

 

ザ・プロファイラ― 「サムライ北の大地へ 榎本武揚」』

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