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榎本武揚はなぜ明治政府に仕えたのか? そして箱館山へ

箱館で敗北した榎本は滅びゆく幕府と運命を共にしようと考えていた。しかしその僅か3年後、榎本は政府から北海道の開拓を任される。なぜ明治政府に仕えたのか。

箱館戦争の首謀者としてとらえられた榎本は東京の牢獄に入った。榎本は家族に宛てて何通も手紙を送ったが中身は意外なものだった。オランダ留学で身に付けた様々な知識や技術が延々と書き連ねてあったのだ。

石鹸やろうそくの作り方。ブランデーの蒸留法や卵の人工ふ化器の作り方などが詳細な絵図と共に記されている。自分の死後日本の産業のために役立ててほしいという言葉が添えられていた。

そんな榎本に救いの手を差し伸べたのが政府高官の黒田清隆箱館戦争では薩摩の軍人として榎本と戦った。黒田はその時榎本から送られてきた本「海律全書」の翻訳を福沢諭吉に依頼した。しかし福沢は数ページを訳すと黒谷こう答えた。
「本当にこの本を訳すことができるのは榎本以外にはいない。榎本に頼めないようでは国家のために残念である。」『福翁自伝

明治政府では榎本を厳罰に処すべしという声が大きかった。だが黒田は榎本の非凡な才能を惜しみ粘り強く嘆願した。
「榎本こそ欧米と対等に渡り合える人物。殺すべきではない。」
ついには
「この通りだ私の頭に免じてくれ。」
自らの髪をそり上げた。黒田はこうして3年間嘆願を続けた。その甲斐もあり政府は榎本の赦免を決定する。

黒田はこの頃北海道開拓の責任者だった。榎本をよく知る黒田は牢獄にいるときから釈放されたら開拓の手伝いをしてほしいと誘っていた。だが、榎本は自分は徳川家に仕えるもので明治政府に仕えるつもりはないと断り続けていた。

しかし数か月後考えを変えこれを受け入れる。その心中をうかがわせる言葉が獄中で記した文書の中に残されている。
「君恩いまだ報いず今日にあう」(主君の恩に未だ報いられず今日を迎えている)
その横にルビを振って「国為(国のため)」と書いてある。

榎本のひ孫にあたる方がその意味を語ってくれた。
「君恩」は徳川幕府を指す。オランダ留学は徳川幕府のお金で学んできた。形は違えど幕末は徳川幕府のため、明治以降は近代日本の発展のため人々のために役立つようなことを学んできたことの中からお返ししなくてはいけないと。」

1872年、榎本は釈放された。37歳だった。その後政府の役人として北海道開拓に尽力。かつて蝦夷地を探索した経験と知識をもとに次々に農場を開墾。更に日本最大級の炭田を発見し石炭を輸送するための鉄道を建設した。

その頃、榎本に初めての子どもが誕生した。子どもは「金八」と名付けた。自分の幼名である釜次郎の釜の字からとったものだ。

開拓に従事したのち榎本は外交官として海外を飛び回った。家族と過ごす時間は少なかったが多くの手紙のやりとりをしている。ロシアでの単身赴任中には
「戦でもない以上いつでも一緒に暮らしたいことは言うまでもない。決して自ら好んで独りで生活しているわけではない。」(多津への手紙)
また清国公使を務めていた際、妻の多津からは
「あなたの日本の冬服はただいま仕立て中です。寒くなる時期までにはお渡しするつもりです。私も早くそちらへ参りたいと思っております。」(武揚への手紙)

榎本は明治政府で大臣にまで上り詰めたが晩年まで旧幕臣たちの援助を忘れなかった。俸禄を失い暮らしに困る旧幕臣の子どもたちのために奨学金制度を設立。箱館戦争のときに榎本の切腹を止め指が不自由になった部下を自分が設立した会社に招いた。

そして73歳でその生涯を閉じた。亡くなる前、榎本はある場所を訪ねている。箱館にある「碧血碑」。箱館戦争の死者800名を弔うため榎本たちが建立した。

碧血とは忠義を貫き亡くなった者が流した血だ。石碑の裏にはこう書かれている。
「山上に石を立てもってその志を表す」

おわり

funa-karui.hatenablog.com

 

『ザ・プロファイラー 「サムライ北の大地へ 榎本武揚」』より

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