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家康はなぜ駿府で隠居したのか? 思い出の地だし年も年だし やっぱ西の方が気になるじゃん

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静岡県静岡市。かつて駿府と呼ばれていたところです。江戸幕府初代将軍 徳川家康は75年の人生のうちおよそ3分の1をこの駿府で過ごし、ここで生涯を終えました。

関ヶ原の戦いに勝利しようやく天下を取った徳川家康は慶長8年(1603年)征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開きます。しかしその2年後あっさりと将軍職を息子の秀忠に譲ってしまいました。そして、ついの住みかを駿府に定めると全国の大名に命じて城を大改修させ隠居生活を始めます。この時66歳。

家康は駿府に隠居しながら江戸に指令を出すという二元政治によって急速に江戸幕府の地盤を固めていきましたが、なぜ生まれ故郷の岡崎でもなく幕府を開いた江戸でもなく駿府を選んだのでしょうか。

その手掛かりが増上寺僧侶が語った言葉を記した「廓山和尚共奉記(かくざんおしょうぐぶき)」にありました。家康が駿府を隠居地にした理由が5つ挙げられています。

 

 

幼少時代を過ごした地

幼少時代を過ごした駿府は故郷も同然で忘れることはない。子どもの頃に見聞きしたものを今になって再びみることはなかなか愉快なことだ。

徳川家康は天文11年(1542)12月26日松平家8代当主 広忠の嫡男として今の愛知県三河の国 岡崎城で生まれました。幼名は竹千代。徳川の性に改めるのは成人してからです。

家康が生まれた頃の松平家は西の尾張織田信長の父信秀が、東の駿河遠江には今川義元がと、強豪国に挟まれ苦境に立たされていました。

そんな中、松平家に悲劇が起こります。父広忠が家臣に暗殺されたのです。この混乱に乗じ今川家は松平家が支配する三河の国を占領してしまいました。

父が暗殺されたその年、竹千代は人質として駿府に送られました。この時まだ8歳。それから19歳までのおよそ12年間の多感な時期を今川家の人質として駿府で過ごすことになります。

この人質時代に自らを成長させる重要な人物と出会っています。太原雪斎(たいげんさっさい)です。

僧侶でありながら今川家の軍師を務めた人物で戦では負け知らずの知略を発揮。政治や外交面でも活躍し、武田・北条との三国同盟を仲介して成立させたのも雪斎だと言われています。

あの武田家の軍師 山本勘助をして「今川家は雪斎なくてはならぬ家」と言わしめたほど、あらゆる面で今川家を支えました。

その雪斎が住持を務めていたのが駿府城のほど近くにある臨済時です。竹千代は雪斎に師事し、この寺で中国の書物や軍学を学んだと言われ戦国時代を忍耐強く生き抜く知恵と才覚を身に付けていきました。

14歳になった竹千代は駿府静岡浅間神社元服。16歳で結婚しその翌年初陣を迎え見事織田軍に勝利します。武士としての才を磨き大きく成長した地である駿府は家康にとって故郷岡崎よりも思い入れが深い場所だったのです。

 

気候そして食

家康が隠居の地を駿府にした理由として「廓山和尚共奉記」にこんな記述もあります。「駿府は北に富士山をはじめとする山々が連なっており、冬が温かく老人は過ごしやすい。それに、コメなどの穀物が他の国と比べ群を抜いてうまい。

長生きこそ勝ち残りの源であると日々健康に気を使っていた家康は駿河湾で揚がった新鮮な魚や駿府で取れた旬の食材を使い調理させていたと言います。特に名産である折戸なすは家康の大好物でした。

 

要害の地

家康が隠居地を駿府とし、この地で2元政治を行った最も重要な理由が「廓山和尚共奉記」の4つ目の記述にありました。

川や山に囲まれた堅固な要害の地なので駿府を隠居地と定めた。

慶長5年(1600)天下分け目の関ヶ原の戦い石田三成率いる西軍を破ると家康はすぐさま戦後処理に取り掛かります。

この時豊臣家は全国各地にまだ220万石近い領地を持っていましたが当主の秀頼はわずか8歳。家康は豊臣領の多くを秀頼の代わりに管理すると見せかけて徐々に徳川家の実効支配化に置いていきました。そして豊臣家の実質的な領地を摂津、河内、和泉の65万石ほどに減らし、いち大名に転落させてしまうのです。

しかし、関ヶ原の戦い大義は東軍も西軍も幼い秀頼公に害を与える家臣を倒すということだったため、戦ののちも豊臣家の影響力は変わらずで家康はまだ危惧していました。

関ヶ原の戦いの後大名がどう配置されたかというと東軍に味方した福島正則、それから加藤清正ですが福島は大幅に加増されたものの尾張の清州から広島に移されています。また、加藤清正は肥後半国を持っていたのが肥後一国を与えらますが江戸からずいぶんと離れた位置です。

こういう人たちは関ヶ原の戦いのときに家康には味方しましたが、なぜ味方したかというと石田三成という相手の大将が憎いからで豊臣に対しての恩義というものは忘れてないわけです。自分を引き立ててくれた秀吉の子どもが秀頼なのでもし秀頼が攻められるとなると死に物狂いでやってくるだろうという意識が家康にはあるわけです。

この福島加藤も含めて豊臣の勢力がもし固まって攻めてくるなんてことがあっても、その手前の駿府で食い止めようと考えたんですか。

そういうことでしょうね。箱根の山ってのは「天下の嶮」と言われてますが、ここが最大の要害なんですね。

豊臣軍がもし西から東海道を攻めあがってくるとその最終の防衛ラインは箱根の山になるはずなんですね。ここを破られたらもう江戸城は丸裸のようなもの。それを守るには箱根の前の駿府に立派な城を築いて食い止めると。

駿府はこの前にも大きな川が流れてますし背後には山もありますからそういう意味では天然の要害になっています。そう考えるとホントに最適な場所ですね。地政学的にいうとここが最大の防衛拠点になるわけですね。

家康の行動はすべて江戸幕府を守るために注がれていたんですね。

そうですね。それから家康はこの頃、海外との貿易をやろうとしいます。海外との貿易は基本的には長崎ですが西国にあるため江戸に近いこの駿府で貿易をしようとも考えるんです。そういうこともあってこの駿府っていうのが選ばれたんだと思いますね。

 

西国大名が立ち寄りやすい

家康が駿府を隠居地に選んだ5つの理由のうち最後に記されていたのも西国大名に対するものでした。

江戸に参勤する西国の大名たちが私に会いに来る祭、みじんもムダのない行程で立ち寄れるであろう。

参勤交代が制度化するのは3代将軍家光の時代ですが、関ヶ原の勝利以降大名たちは徳川家に取り入ろうと自発的に江戸に参勤するようになっていました。

将軍はもちろん江戸にいる秀忠ですが実権は家康が握っていることは明白で全国の大名は家康にも挨拶したいと考えていました。

特に西国の大名にとって駿府は江戸に行く途中にあります。そのため家康は「まさか駿府を素通りするわけにはいくまい。」そう考えて西国大名たちの自分への忠誠心を試していたのかもしれません。

 

慶長20年(1615)家康は豊臣家を大坂夏の陣で滅ぼし悲願だった天下統一を成し遂げます。もはや家康に敵対する大名は一人もいませんでした。その翌年、家康は75年の生涯を閉じます。大御所として一番愛した駿府城で。

家康にとって駿府は自らを武士として成長させてくれた大切な場所でした。だからこそついの住みかとしてこの地を選んだ。そしてこの地でにらみを利かせ江戸幕府を徳川の世を最後まで守り続けたのです。

 

『にっぽん!歴史鑑定 「徳川家康はなぜ駿府で隠居したのか」』より

ここまでお付き合いいただきありがとうございます m__m