みなさんは『すし絶滅の危機』があったことをご存知ですか?その原因は・・・!
握りずしの1人前が10個なのはなぜ?
それは・・・
それですし絶滅の危機を乗り越えたから。
日本の食文化として定着し子どもも大人もみんな大好きなすし。戦後このすしが日本から消えた時代があった。
事情に詳しい寿司屋の人
「戦後まもなく日本のすし屋は絶滅したんですよ。それを昭和22年にお米1合で握り10貫握るということで復活させたんです。」
すし職人が綴った記録にはすし復活をさせるためにお米1合で10個握るという起死回生のアイデアが記されている。
江戸時代の屋台で生まれた『握りずし』は日本の食文化として発展。戦前、東京のすし店は3000軒を超えていた。
しかし戦後すしは絶滅の危機を迎える。
太平洋戦争が始まる昭和16年。すし文化の危機が始まった。すし店の命ともいえるお米、そして魚が配給制になった。
「魚の配給がどんどん減ってきましてね、すし握るものがなくなってきたんです。」
それでもすし文化を途切れさせないように作っていたものがあった。
「『戦時ちらし』と言って魚なしで野菜主体のちらしだったんです。お客さんはうまそうに召し上がってたね。戦争中だから。』
状況は益々悪化していく。
「昭和19年の半ばごろまでに完全にうちは閉めましたから、最後の仕事が『戦時ちらし』だと僕は記憶しています。」
昭和20年、終戦。日本は多くのものを失った。お米や魚の配給制が続く中、すし店にとって衝撃的な出来事が起こる。
飲食営業緊急措置令
限られた食料を国民に配給するため、一部許可された店以外日本中で飲食店の営業が禁止になった。
許可された中にすし店はなく日本からすしが消えた。
この時すしを守るべく立ち上がった男がいた。銀座のすし店主八木輝昌である。
組合員を集め活路を見いだせないか議論を重ねた。目を付けたのは国民に配給されれる1合の米。
家庭ではすしは握らない。ならば我々があの米を使ってすしを握ったらどうだ。
考えたのはすしの委託加工。
客が持ってきた配給の米を握りずしに加工して客に返す。これなら飲食業ではなく加工業となる。
八木たちは東京都知事に直談判したが答えはNO。米は良くても魚はダメだという理由だった。
八木たちは食い下がった。配給で規制されていないものがあるじゃないか。貝、エビ、川魚、かんぴょうやしいたけ。卵のすしもうまい。
八木は言った。
加工賃を40円もらえれば10種類のネタを用意できる。米1合を10個の握りずしにします
40円で10種類なら多少もうけも出る。すし店そしてすし文化が生き残るためのギリギリの数だった。
許可が下りた。
米1合から10個。これが1人前10個となるきっかけとなった。
「おやじがね、組合の本部から帰ってきて委託加工が始まるぞ。1合で10貫握るんだって。はかりを持ってきて1貫の重さを量ってましたよ。」
昭和22年、すし店は持参米鮨委託加工として営業を再開。
「お客さんが喜びましたね。けっこう並んだりしてね。」
戦後日本は復興。すし店の数も増えていった。委託加工の時に決められた握りずし10個はそのまま1人前の目安になった。
ということで握りずしの1人前が10個なのは 握り10個で寿司絶滅の危機を乗り越えたから でした。
※現在はお店や値段により、おすしの数が増減したり、1合より少なく握る場合もあるそうです。
『チコちゃんに叱られる!▽握りずしの謎』より
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