黒田官兵衛 vs. 大友義統 石垣原の戦い! ここから官兵衛の快進撃が始まる
慶長3年、天下人 豊臣秀吉がこの世を去った。
その後主導権を握ろうとする徳川家康と豊臣体制を守ろうとする石田三成の間で激しい権力争いが起こる。
全国の大名は家康につくか三成につくか選択を迫られた。
官兵衛が領地を持つ九州では薩摩の島津、筑後の立花宗茂、肥後の小西行長といった有力大名の多くが西軍につき、東軍に与したのは肥後の加藤清正など少数。
そんな中官兵衛の動きには奇妙なものがある。
まず嫡男の黒田長政が正妻を離縁して家康の養女と結婚。
家康につく立場を鮮明にする。
その一方で西軍の総大将となった毛利輝元の家老に官兵衛はこのような書状を送っている。
「輝元様が大坂城に移ったことはめでたく存じます 豊臣秀頼様に別心(二心)あるものは存在すべきではなく やがてめでたく鎮まることでしょう」
毛利輝元の大坂城入場をたたえ、西軍に心を寄せているような言葉を伝えているのだ。
小和田
「今の私たちの歴史の結果を知っている立場からすると、東軍家康方が勝って当然だという思いにどうしてもなっちゃうんですけれども、あの時点でまさに現場に置かれていた武将たちにしてみれば、まだね、西軍が勝つ見込みもあったんですよね。」
「官兵衛にしてもどっちが勝つが見えてない時点では、やっぱり多少西軍の方にもすり寄っているような、そんな側面はあったと思います。」
東軍か西軍か、立場をはっきりさせない官兵衛。
しかし、関ヶ原の戦いに向け着々と準備を始めていた。
家康の元に送った長政率いる黒田軍本隊とは別に独自に兵を集めたのである。
蓄えていた金銀によって新たに召し抱えた浪人はおよそ3600人。
さらに領内の百姓からも希望者を募り、総勢9000の軍を組織した。
そこに九州の情勢を変化させる新たな動きが生じる。
かつて豊後の国を治めていながら秀吉に領地を没収された大友義統(よしむね)が毛利輝元の後押しを受けて西軍として九州へ戻って来たのだ。
官兵衛は即座に東軍として行動を始める。
新たに組織した黒田軍を率いて大友軍に向け出陣。
慶長5年9月13日、現在の大分県別府市で大友軍と石垣原の戦いと呼ばれる激戦を繰り広げる。
官兵衛は寄せ集めの兵を指揮しながら大友の名だたる武将を討ち取っていく。
9月15日、大友義統は降伏。
くしくも関ヶ原の戦いを同じ日だった。
その後官兵衛は領主と兵が上方に赴いて守りが手薄になっていた西軍の城を立て続けに攻略。
九州の玄関口である小倉城などを攻め落とし豊前と豊後の2か国を占領した。
西軍の多い九州で東軍となったからこその離れ業だった。
実は官兵衛は戦の直前に家康の右腕だった井伊直政から書状を送られていた。
「家康はどこに出兵してもかまわないとのこと また手に入れた国は与えると仰せになっています」
あらかじめ家康から手に入れた領地を自分のものにする約束を得ていたのである。
小和田
「この時の官兵衛の思いは言ってみれば戦国の論理そのものですね。まあいわゆる戦いに勝ってね、敵地を奪っていく。自分の領地を増やしていく。それこそ九州各地を荒らしまわって自分の土地を増やしていこうというのがこの時点での官兵衛の狙いだったと思いますよね。」
つづく
出演者
【出演】千田嘉博 小谷賢 平山優
【VTR出演】小和田哲男
【語り】松重豊
『英雄たちの選択 戦 「九州 もうひとつの関ケ原~軍師・官兵衛 知られざる野望」』より
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