はてなブログProへの道

ゆくゆくはProへ昇格したいと思っておりますが、いつになることやら、、、

蝦夷政権成立と誤算 そして箱館戦争終結

 

 蝦夷政権誕生

1868年10月20日、榎本は蝦夷に到着。一行は警備の厳しい箱館港を避け北側の鷲ノ木から上陸。榎本はまず明治政府の拠点となっていた五稜郭に向け嘆願書を送った。上陸は戦闘のためではなく開拓のためでありこれを許可してほしいという内容だった。

しかし、明治政府は嘆願書を無視。武力衝突へと発展する。榎本の軍は箱館へと南下。10月26日五稜郭を占領した。

ここでも榎本は古くから蝦夷の南部を治める松前藩へ手紙を送る。共存共栄を図りたいという趣旨だった。しかし、明治政府の統治下にあった松前藩は榎本の使者を斬り返答しなかった。

ここに至り榎本は松前城に攻撃を開始。土方歳三率いる陸軍部隊が一斉射撃を浴びせ僅か1日で松前城は陥落した。

戦いのさなか榎本が最も重要視したのは外交だった。明治政府軍と戦うには西洋列強が干渉せず中立を保つことが不可欠だったからだ。榎本は箱館に在留していた各国領事に自らの立場を表明した。
「我々は反逆者でも逆賊でもありません。祖国の地で誇り高く生きる権利を持ち武器を手にその権利を守ろうと戦う者たちなのです。」

オランダ留学時代に身に付けた語学と国際法を武器に榎本はイギリスやフランスなど各国の代表と交渉。榎本は自分たちを事実上の政権として彼らに認めさせ中立を引き出した。これが後に蝦夷政権と呼ばれるものである。

 

開陽丸沈没

その後も陸軍部隊は着々と蝦夷地を進軍していく。土方歳三たちの活躍を聞いた榎本は軽い気持ちでこう言った。
蝦夷地上陸以来、陸軍ばかりが活躍して海軍兵たちの不満が募っている。気休めに江差までまで連れて行って大砲の2・3発でも撃たせてやろう。」『松前奉行・人見勝太郎の証言』

しかしこの一言が運命を大きく変えることになる。榎本は江差方面で戦う陸上部隊を支援するため軍艦開陽丸を移動させた。そこへ運悪く猛吹雪が襲い船が座礁。岩場に挟まった開陽丸は船底が破れ沈没した。沈みゆく船を榎本と共に見ていた兵がこの時の心境を書き残している。
「闇夜に灯火を失ったようだ」『麦叢録』

ちょうどそのころ東北地方の反政府勢力を平定した明治政府軍が青森に集まってきていた。冬が過ぎ春になったら一気に箱館に攻撃を仕掛けようと準備を整えていたのだ。

一方の榎本は冬の間に政権の体制を整えていった。アメリカに倣い投票で新政府の役職を決めている。明治政府に20年以上も先駆けて行われた日本初の選挙である。そこで榎本は総裁に選手される。

蝦夷は独立国への道を着々と歩んでいるように見えた。だが、12月28日、榎本たちを事実上の政権と認めていた諸外国が中立の立場を撤回明治政府の支持へと回ったのだ。

「榎本たちの最大の戦力であった開陽丸を失った。これが諸外国の態度を変えさせたことになった。これにより榎本たちは頼れるものを失ったことになり明治政府軍と武力を持って戦うしかないというふうに追い込まれていくわけです。」

1869年1月、榎本は東京にいる妻と家族に手紙を送った。
「もはやこの世でお目にかかれるかわからない。自分への評価は死後、棺のふたを閉めた後にわかる。」『多津への手紙』

 

そして箱館戦争終結

4月、北国に春が訪れると明治政府の陸軍が蝦夷に上陸。8000の大軍で箱館を目指して進軍した。対する旧幕府軍はおよそ3200。防衛線は次々と突破されてしまう。

そして5月11日、明治政府軍はついに本拠地の箱館を総攻撃。この日激しい戦闘を繰り広げてきた土方歳三が敵の銃弾に倒れた。もはや榎本たちの敗戦は明らかだった。

明治政府軍に降伏を促されるが榎本はこれを拒否。死を覚悟し明治政府に宛て手紙と共にある書物を送った。留学時代から肌身離さず持ち歩いていた国際法の書物「海律全書」である。
「この万国海律全書は皇国無二の書である。もし戦火によってこれを失えば痛惜の極みである。」『降伏勧告書への返書』
これから日本のためにこの本を役立ててほしいという願いだった。これを受け取った明治政府軍の総指揮官 黒田清隆は榎本の志に心を打たれ酒とマグロを送ったという。

その夜、榎本は切腹を決意。短刀を手にした。気配を察した部下が駆けつけ短刀を素手でつかんだ。
「ここで死ぬべきではありません。」
榎本は部下の指が切れ血が流れているのを見て思いとどまったという。

翌朝、榎本はこれまで共に戦ってきた仲間に感謝を述べ降伏する旨を伝えた。1869年5月18日箱館戦争終結。榎本34歳の時だった。

つづくfuna-karui.hatenablog.com

 

『ザ・プロファイラ― 「サムライ北の大地へ 榎本武揚」』より

ここまでお付き合いいただきありがとうございます m__m